教育

Education

沿革

沿革

この原稿のために20周年記念誌を見直してみると、2枚の写真があり、わたしを含め何人かは苦労知らずのような表情で写っている。この10年はなにせ1998年3月、喜納勇教授が急性くも膜下出血のため急逝されるということがおこり、教室は途方にくれた。当時、教室員の2人は留学中であり、また、大学院生のひとりは国内留学が決まっており、はいったばかりの1年生、留学生の夫婦、外科から学位をとりにきてまだ緒につかなかった数人という状況であり、前夜深夜まで症例検会をされていたのであるから、たぶん検討中の標本、査読のうえご教示ねがいたいという英文の総説原稿、近くにせまっていた京都でおこなわれる第一回国際胃癌学会の座長準備などなど部屋も文字通り足の踏み場もなかった。誰しもこんなことが人生に起こりうるのだろうかと呆然としていた。教室は人数もふえ、留学していた若い人を返していっきに研究レベルをあげ、学問的集大成をねらうまさに最後の直線コースのスパートの時期であり、喜納教授は早朝から教室につめ、意気軒昂であり、それだけに、いまでもその無念さはわれわれがはらさねばと思っている。また病理医になりたての教え子を関連病院に送り、診断面の層も徐々にあつくなっていた頃であった。急逝後の半年間は、地域医療の関連病院をつないだり、pendingになっていた臨床から来ていたひとや、留学生の論文をどうにかこうにかかたちにしたりしていた。1998年11月筆者が昇進し、あらたな教室をたちあげようとしたが、実際に25 年もはなれた碩学の作ったもののようにはいかない。優秀さをよく知っていた留学中の田中正光博士を助手として迎えることが最初にとった行動で、助教授のかわりに3人目の助手としてとりたいといったのだが、事務のほうではだめであるとのこと、内藤助手を一時的に助教授に編成を変えて、ポストをあけた。さらに留学中の新井冨生助手はその業績、診断力をかわれ帰国後すぐに東京都老人医療センターに迎えられた。それ以後は人事の苦労が続いている。助手の任期制を導入し外国人留学生の王健東博士を初の任期制助手として採用。半年後、カナダのトロントへ移動し、そのあと、成田日赤病院の安見和彦博士を助手として採用、西部医療センター病理部副医長として転出後、ボストンに留学中であった、太田聡博士を任期制助手として迎えた。本教室で、病理認定医の試験をパスし、1年半後、北海道大学付属病院の病理部に赴任。その後、後任の助手を遺伝研および臨床研を経てきた渡辺良久博士に決定後、待機状態になり、その間2002年9月に国立がんセンター研究員であった新村和也博士が病理部医員として着任、2003 年4月田中正光助手が、国立がんセンター室長として栄転、渡辺助手ようやく着任(1 年半後)、新村和也氏を助手に決定するも待機中のまま2004年4月学術振興会特別研究員として現在にいたる。また、静岡理工科大学の修士課程の学生あるいはその卒業生も教室員として働くようになった。このように、致命的な人事の停滞があることが、とくに大学院卒業直後の若者に学内で一時的にせよ適当なポジションが与えられず、在学中にすぐれた業績をあげたり、病理診断の実力を十分に鍛錬したにも関わらず、というかそれだけにいっそう、外の施設に売れてしまうことが普通になった。また、そのためか、若い研究者の回転は非常に早い。この間、フライブルグ大学のアショフハウスで留学生活をおくっていた谷岡書彦博士が病理部医員として教室に加わっていただき、認定医の準備をし、認定医取得後、磐田市立病院病理検査科長として転出活躍している。また、第一外科から学位をとりにきて、病理へ転向を表明していた北山康彦博士もこの間藤枝市立総合病院へ病理医として赴任、病理認定医を取得後静岡済生会病院へ病理検査科長として赴任。現在も教室で研究を活発に行い成果をあげている。また、市内の基幹病院で活躍している喜納教授のお弟子さんたちが、きわめて高い病理診断レベルと、リサーチマインドをもって、教室の若い人や私自身を指導していただいたということもこの10年間教室がまだ存続している理由だと思われる。さらに当教室の2人の専門技術職員はその技量、仕事に対する誠意とも日本一ではないかと思っている。本学の病理業務の周辺には問題が山積しているにもかかわらずそれを果たしたうえにさらに、実際にその職域で、賞をうけたり、特許を取得したり、何度となく科研費を獲得していることなど、単なる身びいきではなく客観的実績からもそう思われる。しかし、重要なことは善意のみで支えられるのでは永続しないのであって、よりよいシステムを模索したい。地方大学の研究室として、停滞をさけるために絶えず若い研究者を内外の研究所に出したり、戻したりして、武者修行を積ませながら教室を生育させるという方針は一応実行されている。このような他流試合を十分にやってきたひとを浜松医大の指導者として迎えることは、ついつい生え抜きだけになりがちな地方医大が実力をつけて生き残るのためには必須なことであると思われる。身近でがんばっているように見えるからといってもそれが、ただのひとりよがりなのか、競争者のいない田舎で好きにやっているのか、研究にせよ臨床にせよ、peer review に耐えうる全国あるいは世界にほこるべきものなのかは永遠のテーマである。当教室に話題をもどすと、せっかく修行させた中堅所をキープすることが前述の事情でできなくなっており、ひいてはおおくの留学生の人生にまで影響を与えてしまうという状況である。小さな組織ではたったひとりのふるまいがいかに悲惨な状況すら生み出すかを如実に示してしまった。これは当事者個人以外反省のしようのないことであるが、この窮状のなかで、ほかの若い教室員はひとの何倍も努力をしているわけであり、本学の基礎系にしては毎年のように入局してくれた本学の卒業生、十数人におよぶ中国、韓国(病理部)、ブラジル、スロバキア、ウズベキスタン、フィリピンなどからの長期、短期の留学生、そして激務にたえている新旧の教室員に敬意をはらうとともに、激励を続けたいと思う。研究面では、2003年からはじまった本学のCOEプロジェクト、"メディカルホトニクスーこころとからだのリスクを探る"にかなり密接に関与していて、からだのリスクとくに癌に対するリスクはひきつづき教室のテーマである。

前回の報告書をみると、科研費や業績の欄もあるが、この10年間に浜松医大そのものが大変近代化されており、それらの情報はhome pageに掲載されているそうなので割愛する。最近は自己評価ということばが大学周辺で頻繁に聞かれるのであるが、もちろん、ノーベル賞級ではないですねという視点からはきわめて低い自己評価をせざるをえないし、こんな状況で、研究費は10年間毎年ふえつづけていたという点では健闘はしたほうなのかもしれない。病理や癌に関するテーマは、とくに病理総論、腫瘍総論的なテーマは漠然としていて、教室で1個の分子をやるというスタイルとはやや違うのは当然かとも思うが、近年のTECHNOLOGY のおかげで、私も含めた病理や疫学などの分野の研究者がよくいう、半分自負心と半分いいわけじみた、"ヒト"をやっているんだからなかなかデータや論文はでないよというセリフを全く意味のないものにした。それだけに戦略のたてようはあるというつもりでもう少しがんばっていこうと思う。

と、ここまで書いたところで、まだスペースがあるので、埋めてくれという要請があった。最近になって、上記のように、教室を巣立っていったかたから、いきなり電子メールをもらうようなことが多くなった。あれだけ、中国に帰れといったのに、母国には数週いただけで、日本のいくつかの研究室にもぐりこみ、その指導教員からはさっぱりわたしのところへ問い合わせがないので、いわば押しかけみたいなものだったろうと思うヒトからは、米国から元気のいいmailがとどき、今度JBCにのったからみてくれというものであった。教室の早期に業績をあげ、いくつかすぐれた研究所をわたり歩いた女性研究者がさらに栄転しそうなことを報告しにきたり、つい最近県内の研究所でポスドクをやっている卒業生が、研究のprogress reportをしたいといってきたり。日本の医学部の卒業生が、かなり若いうちから、研究のみをやって給料をもらうという環境をあたえられるようになったのは最近ではないかと思うし、現在でも大部分のひとはそうではない。初期の論文が評価されうなるほどの研究費のあるポスドク生活を手にしていたのが、がらっと生存競争の場にかわる年代にさしかかっている。もともと競争の敗者に復活をあたえるシステムがそろっていない、大学や都市の序列志向が意識だけでなく物理的金銭的環境にまでおよんでしまっている、さらについ情がうつってしまって流動性をみずから作りにくい状況になりやすい日本(わたしのアメリカのボスはMycoplasma in Japanese Cultureといっていた)で、私自身がうらやましいと思うような研究生活をおくってきた若者がどのように対処していくのか、あるいは彼らにどういうふうに対処していくのかについてはちょっと自信がない。欧米のラボには、我らが愛すべき医局旅行、とまりがけでみんなで酔っぱらうあれのかわりにretreat がある。キリスト教徒が隠遁して瞑想生活をおくるイメージで、そういえば筆者もミッション系のハイスクールだったのでそんなものがあった。もっともわたしがラボで体験したのはワインあり、音楽ありで、医局旅行とたいしてかわらないものであったが。あと10年たったら、上海あたりで教室のOB,OG もふくめてretreatといきたいものである。

教授 椙村春彦