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図書館報「ひくまの」

No.30

浜松医学校と虎岩

第三内科 助手 倉田千弘
 私の母の旧姓は「虎岩」という。「虎」に「岩」とは凄い苗字だと子供心に思ったものである。母の従兄弟の一人がこの奇妙な名前に興味を抱き、その系譜などを調査したことがある。その調査結果を従兄弟は1982年に手紙で母に伝えてきている。最近、その手紙を初めて見せてもらったが、結局なぜ「虎」に「岩」なのかは判明しなかったようである。その手紙に記された調査結果の概要は次にようである。1000年余り前に遡って貞純親王という人からの系譜で始まっているが、多少詳しくなるのは戦国時代になってからである。武田信玄の配下だった虎岩播磨守頼孝が信長との戦いに敗れ、その敗北の惨めさから武士にしようと思っていた三人の子供を藪医者にした。一人(虎岩道晴)は信州に、一人(虎岩道信)は遠州に、一人(虎岩道雪)は仙台にと、武士の残存追跡を避けるために離れ離れにした。1981年の時点で、虎岩という姓の拠点が長野県下伊那郡阿智村駒場と静岡県島田市本町通と仙台の3ヶ所にあるという。阿智村に2軒、島田市に2軒あって、仙台での詳細は未調査だが現在も医者らしく、その子孫の一人は医者として富士市にいると伝えられていると記してある。
母の実家は長野県下伊那郡阿智村駒場にあり、実家近くの淨久寺には虎岩道晴の墓がある。駒場の大火事の時に系譜が紛失し、母の曾祖父から虎岩道晴までの繋がりはよくわからないらしい。虎岩播磨守頼孝が敗軍の将だったためか、「虎岩は戦いに勝てない」との戒めが言い伝えられている。確かに、信州の虎岩家の人たちは人がよく、戦いに勝つタイプとは思えない。
従兄弟は調査結果の最後に伊豆木(現飯田市三穂。飯田は下伊那郡阿智村の隣で、母の親戚も飯田から阿智村にかけて散在している)出身の「虎岩武」という者がいて、本も出しているらしい...と結んでいる。今回、川島学長から依頼されたのは、この虎岩武(1856~1894)について書くことであった。明治のはじめ頃、信州の虎岩家の一人が浜松に医学校で働いていたような話をきかされたことはあった。とは言え、かなり不確かな話で、浜松に医学校があったことなど全く知らなかったので、何かの間違いだろうと思っていた。ところが、学長から明治時代に浜松に医学校があって虎岩武なる人物が確かに勤めていたと聞かされ、さらに母に尋ねてみると、虎岩武から母の祖父(虎岩直市)宛ての手紙が長野の実家に残されていることがわかった。その一つ(明治24年9月25日消印)のコピーが手元にあるが、残念ながら私には解読できない。
川島学長が虎岩武について書くよう指示されたのは、虎岩武が浜松医学校に勤めながら、米国の医学書"CONSECTUS OF THE MEDICAL SCIENCES"を翻訳s「七科約説」として出版した人達の一人だったからである。明治初期の代表的な医学の教科書であったとされる「七科約説」の翻訳の没頭したという。ちなみに、この翻訳を2000頁に及ぶ医学書として出版にまで成功させた浜松県立病院長兼浜松医学校校長の太田用成も長野県飯田の出身であった。
その後、虎岩武は浜松を離れ愛知公立医学校に勤めるが、再び浜松にもどり静岡県立浜松病院(この当時、浜松県は静岡県に統合されていた9に勤めた。その後、福井県敦賀病院長や引佐病院などを経て、結局、故郷の飯田市で医院を開業した。「七科約説」の翻訳完了後のおよそ6年間に、忙しくあちこちを転々とし、なおかつ、この間に結婚と離婚も経験したらしい。当時としてはありふれたことかもしれないが、一所に落ち着けなかった理由を想像していまう。開業後、10年間は飯田にとどまったようだが、ジフテリア患者の往診で感染し38歳で亡くなっている。
この原稿を書く前に信州を訪ね、虎岩武と母の実家との詳しい関係を調べたかったが、正月休みも病院通いで、できなかった。私の日常の大部分が病院に縛られている割に、その効率は非常に悪く、診療も研究も教育も十分な成果をあげていない。その反面、医療の現場には臨床医が育つだろうか。静岡県の医師不足を補おうと臨床医養成を主目的に作られた浜松医大の一期生として、また、その一教員をして、浜松医大に今後のあり方と自分の生き方について考えを巡らすことがある。およそ百年前に浜松医学校の教員であった虎岩武はひたすら「七科約説」の翻訳に没頭するばかりで、浜松医学校や自分の将来について考えることはなかったのだろうか。今年、44歳(虎岩武より6歳も長生き)になる私は新たな道に踏み出すべき時にあるのかもしれない。どんな道を歩み始めようか、虎岩武の意見も聞いてみたいものである。今年中には、なんとか暇を作って虎岩武の郷里を訪ねることにしよう。