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図書館報「ひくまの」

No.30

Patient「耐え忍ぶ者」

学長 川島 吉良
 医学の真髄は、心・技・知(頭脳)と考える。医の心とは病院(患者)の訴えを良く聴き、その苦悩や苦痛を十分理解して、それらを癒し健康を取り戻し、一日も早く社会復帰出来るよう全知全納を傾ける医師としての正義であり、技とはその正義を実現するための最善の手段で熟達した医療技術が求められ、知(医師の頭脳)とは前二者を指令して個々の病者に即答出来る高度の専門的知識であり、これら三者を身に着けている医師が良い臨床医と言われる所以である。これは大変に難しく医師の一生涯に負わされた命題である。
とりわけ困難なのは医の心を涵養することである。先輩の医師を見習い、患者さんの臨床体験から学び、講義を聴き、体験記を読み、自己学習などあらゆる努力が要る。
先輩医師は医の心の教育を積極的に行うべきである。医師自身は、死の不安と闘いつつ生を願う患者の心、病苦に揺れる患者の心、今日も黙々と耐え忍んでいる病者の心をよくよく学ばねばならない。
解剖学の分野で立派な業績を残し、自らが癌で44歳の若さで亡くなった東京大学教授・細川宏先生の遺稿詩集「病者・花」からわたしは多くのことを学んだ。「病者を英語で、patientと言い、耐え忍ぶことを意味する。病者は我が身を襲う病苦の激しく且つ執拗な攻撃をじっと耐え忍ぶのだ。一息吐くのにも精一杯の力が要ると言う絶望的な世界にあっても、病苦の激しい時こそ春を待つ細い竹のしなやかさを思い浮かべて、じっと苦しみに耐えてみよう。」と書き残し、さらに「若しも医師が不治の病を宣告する時、その後の毎日をどうその患者と対決し会話を交わしていく積もりか、それだけの人間的力量を果たして医師に期待してよいものか。」と、死力を尽くして癌と闘った教授は「石に咬りついても早く治らねばならんぞ。」と書いて12日目静かに息をひきとった。
科学知識による自己コントロールと言う生活信条を実践し、医学・医療事情に詳しい柳田邦男氏の「犠牲ーわが息子・脳死の11日」ー苦悩の末に自殺をはかり脳死状態に陥った我が子を看取った手記から学ぶことは多い。「現代医学は治癒の見込みのない患者を見放しがちだが、死は避けられない者こそ、かけがえのない一日一日を生きているのだから、そのクオリティ・オブ・ライフ(QOL)を大事にしたケアが必要である。死にゆく者の時間を最大限に輝きのあるものにするのに支援すると言う問題は、癌患者でも救急患者でも同じレベルで考えられるべきではないか。」と問題を提起した。そして、息子の主治医が「脳死であっても最後までお世話します。」と言ってくれたこと、そういう思いやりと行為はターミナルケアの心につながるものだと好感と信頼感を医療人に抱いたと結んでいる。
平成5年10月28日の本学の解剖体慰霊祭で県西部浜松医療センター院長の室久敏三郎先生からの講話

「荒金天倫老師の生きざま」を拝聴した当時の感動が鮮明に甦って来る。荒金天倫老師は静岡県引佐郡引佐町にある臨済宗法広寺派総本山・方広寺の管長であった。荒金老師の主治医をなさっていた室久先生は昭和62年10月、荒金老師の肝右葉に直径10.5センチの腫瘍を発見した。これを悟って「肝臓にダイヤモンドが入っているわけではない。癌なら癌とはっきり教えて欲しい。」とのユーモラスな中にも厳しい禅の修行で培われた鋭い眼光と気迫が漲った老師の言葉に、「悪性の腫瘍、しかもかなり進行しています。」と率直に宣告された。すると老師は「やらねばならぬ仕事があるから、あとどの位生きられるものかを教えて欲しい。」と。老師は青少年研修道場「円明閣」を3年計画で完成させたいと願っていた。室久先生等医師団は一年半の余命との見解で一致していたが、室久先生は「3年は保証できるでしょう。」と願望込めて申し上げた。老師はその時の心境を「癌と知って平気だったと言えばウソになる。癌と宣告されて、ああそうですかと笑っておられるものではありません。顔からジーンと血の気が引いてゆく思いがしました。」と語られた。更に「あと3年と言われたので、それならば精神的の30年分生かして使おうと思ったのです。それから毎日がこの建設のための仕事であった。生きる時は精一杯生きる。死ぬ時は一生懸命死ぬ。秋になって木の葉が散る時に、おれは散るのは嫌だと言ってもしようがないのです。」と述壊された。その後主治医を全面的に信頼し、エンボライゼイション等の治療を受けながら円明閣の建設資金集めに東奔西走の日々であったが、平成2年1月7日に還化された。円明閣の落成式が行われたのはそれから半年後であった。
平成7年4月9日、第24回日本医学会総会が名古屋市で開催され、大江健三郎氏による特別講演「癒される者として」が行われた。大江氏が平成6年12月、ノーベル文学賞受賞講演「あいまいな日本の私」で「私は渡辺一夫のユマニスムの弟子として、小説家である自分の仕事が、言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、また時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの固まりの傷を癒すものとなることをながっています。日本人としてのあいまいさに引き裂かれている、と私はいいましたが、その痛みと傷から癒され、恢復することをなによりもとめて、私は文学的な努力を続けてきました。」と述べられた事、更に「癒される者」の中で、長男光さんの誕生直後に訪れた広島市の原爆病院長の重藤文夫先生、光さんの手術を担当された森安信雄先生からの影響を受けたとの文章から私は癒される者の心に深く思いを致した。
それは次のような文章や言葉である。「私には知的障害のある光という長男がいる。光が脳の手術をする時、医師から知的障害を持って生きなければならないことを告げられた。しかし光はいきていくために手術が必要だとも言われた。私はその時、医師は医者としての正義を実現せているのだと思った。そして、自分もそれに従おうと思った。光は現在、32歳だが、これまでずっとあの時の正義に導かれてきたと感じている。」、「脳の手術をしてくれた医師が亡くなったと知った時、光はそれまでになかったような乱暴な言葉で怒りを表現した。その後、三日ほどすると落ち着き、鎮魂歌を作曲した。光はおそらく、好きだった医師の死を通じ、死がどう言うものか深く考えたのではないか。」、「光の音楽を聴いて、私や妻が感じますことは、まず医師たちの援助によって、光を癒すことに努めてきた、そして癒すことができた、ということです。同時に、そのこと自体によって私たちが癒されてきた。むしろ光という子供が恢復してゆく過程に立ち会うことによって自分たちも癒されてきたということです。」


引用文献
  1. 小川鼎三、中井準之助編:詩集 病者・花ー細川宏遺稿詩集 現代社 1985
  2. 柳田 邦男:犠牲ーわが息子・脳死の11日 文芸春秋  1994年4月特別号
  3. 柳田 邦男:脳死、私の提言 文芸春秋 1995年4月号
  4. 柳田 邦男:犠牲 文芸春秋 1995
  5. 室久敏三郎:平成5年度解剖体慰霊祭講話 浜松医科大学学報 第78号 1994
  6. 大江健三郎:あいまいな日本の私 岩波新書 岩波書店 1995
  7. 大江健三郎:癒される者として 第24回日本医学会総会講演集 1995